インパール作戦秘話

インパール作戦01


白骨街道というのは、ご存じのとおり、インパール作戦における退却路です。インパール作戦で敗退した日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受けながら、退路地を退いて行きました。飢えて衰弱した体でマラリヤや赤痢に罹患し、負傷して痛む体を引きずって、この道を約7万の日本陸軍の兵士たちが退却した。

そして街道で約4万人の日本兵が亡くなり、無事に帰還できた者はわずか2万名でした。途中の退路には、日本兵の白骨死体や腐乱死体が点々と折り重なっていたところから、白骨街道の名前がつけられました。その道筋では、亡くなって一か月経過した者は白骨となっています。

亡くなって一週間程度の屍はどす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。なにかの拍子に蠅が飛び上がる。すると遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。すさまじい腐臭です。

その一体、一体が、尊い命です。歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。
生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

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半日前とかー時間ほど前に息を引き取ったのか、道端に腰掛けて休んている姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り「真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。
そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。
地獄とは、まさにこんなところか・・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。それをたどって行けば細い道でも迷わず先行部隊の行った方向か分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。この道標を頼りに歩いた。ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。雨があがり晴れれば、さすかに熱帯、強い太陽か照りつける。暑い。衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。

一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己
http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html
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英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。インパール作戦というのは、昭和19(1944)年3月から6月にかけてインド北東部の都市インパールを目指してビルマ北部で展開された戦闘です。日本は、この戦いで敗退しました。

作戦を指揮した牟田口中将も、「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦いをした」「牟田口中将はバカである」「はじめから意味のない戦いだった」等々、戦後あらんかぎりの罵声が浴びせられました。
実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。それはある意味しかたがないことかもしれません。

しかし、思うのです。負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。むしろ後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかと思うのです。インパール作戦についてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。にも関わらず、牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。兵站が不足している。それは行く前からわかっていることです。にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。

無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。
そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。4万のインド国民軍を温存したのです。どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょう。

さらにこの戦いは、英国15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。

インパール作戦は、これに匹敵する大規模な陸戦です。にも関わらず、英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。こうなると、巷間言われている、単に無謀な戦い、意味のない戦いというのは、なにか違和感を覚えます。このブログで、武道の心について何度か書かせていただいています。
欧米における格闘技は、敵を殺し、倒すためのマーシャルアーツです。ところが日本武道は、試合や勝負における「勝ち」を、からなずしも「勝ち」としていない。スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
そのためには、体を鍛え、技を磨く。

しかし、日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎない。本当の勝利は「克つこと」というのが、武道における勝利の考え方です。
その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする。たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。小男が拒否する。小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。普通なら、寝転がって「うう・・」となってしまう。

しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、殴られても殴られても何度も立ち上がる。気を失っても、まだ立ち上がる。いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、帰っていく。女性は暴行されずに助かる。

殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。小男は負けです。けれど、大好きな女性を護りきったという点、(目的を達成した)という点からみれば、小男は「勝ち」です。どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。それが武道の心です。

武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいたとしても、すでに老齢になっていたとしても、戦うべき時には戦わなければなりません。相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば死にます。しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれる。

そのために自分が死んだとしても、みんなを護るためなら、喜んで戦い、死ぬ。戦いでは「負け」たかもしれないが、みんなを守ったという点では「勝ち」です。それが武道の「勝ち」です。

マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサと試合します。殴られても殴られてもジョーは立ち上がる。ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコに殴る。ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。

マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合でホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。リングの上の勝負ではホセが勝った。けれども、その結果ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。ホセも勝った。ジョーも勝った。
ふたりともよく戦った。要するに武道は「心・技・体」なのです。

スポーツは、逆に「体・技・心」。なにがあっても負けない強い心、自らの死を賭してでも目的を貫き通す強い心を養う。それが日本の武道であり、武士道の精神です。スポーツが単に体を鍛え、試合に勝つことを目的としていることに対し、武道は、心を鍛えるために技を習得し、体を鍛える。まったく発想が逆です。

そうした武道の「心」からインパール作戦を考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが、その「作戦」から見えてきます。

インパール作戦は、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。実際、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万です。この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンです。しかし牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいと主張して譲らない6千名だけを連れて、牟田口中将はインパールへ出陣します。

インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしているというのは、ふつうに考えて、あり得ないことです。ただでさえ、火力が足らないのです。これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。しかも補給がありません。物資がないのです。
食い物すらない。

「インパールは補給を無視した無謀な戦いである」などとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなはじめからわかっていたことです。補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる行軍します。そして、インパールの戦場に向かった。

そして2か月を戦い抜いた。2か月というのは、ものすごく長い期間です。かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
医薬品もありません。場所はジャングルの中です。山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。日本の将兵たちは、敵と戦うだけでなく、飢えや病魔とも闘わなければならなかった。

そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は壊滅します。それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けました。日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃声が止んだあと、日本の兵士たちの遺体を見て何を感じたのでしょう。英国の兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。そして自分たちのために戦っています。

ところが日本の将兵は、他国(インド)のために戦い、武器・弾薬も不足し、食料もない。ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。遺体は、まるで幽鬼です。ガリガリに痩せ細り、まるでガンの末期患者の群れのような少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめてそこに死んでいる。殺しても殺しても向かってくる。

最初のうちは、英国の将兵たちも、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。しかし、それが何日も続く。
何回も続く。軍としての統制と機能は、とっくに崩壊しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。降参を呼び掛ける。でも、誰も降参しない。弾も持たずに、銃剣ひとつで向かってくる。
そんな戦いが60日以上も続いたのです。人間なら、誰もがそこに「何か」を感じる。

まして騎士道の誇り高い英国の兵士たちです。彼らはそこに「何か」を感じた。
ようやく日本軍は潰走をはじめます。街道を撤退しはじめた。マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めます。そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がった。インパール作戦について不思議なことがあります。それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。

戦いのあとインドのデリーで、英国軍が戦勝記念式典を開催しようとした事実はあります。英国軍よいしょのインド人たちが、おめでとうございますと、戦勝記念式典を企画したのです。ところが、当時インドに駐留した英国軍の上層部から、これに「待った」がかかった。結果として、戦勝記念式典は、行われていません。

15万対9万の陸戦という、ヨーロッパ戦線おいてすらあまりなかったような世界的大会戦だったのです。
それに勝利したなら、盛大なパレードと、飲めや歌えやの大祝賀会が開催されたっておかしくない。
けれども、祝賀祭も、パレードも開催されていない。この戦いに参加した英国の将兵にしてみれば、とてもじゃないが、この戦いを「勝った」と誇る気分にはなれなかったのではないでしょうか。

実戦に参加せず、安全な場所にいて指示だけ出していた連中が、得々と戦勝記念祭を開催しようとしても、実際に戦った英国軍の将兵たちは、それをこころよしとしなかった。英国軍は、なるほどインパールの戦闘に「勝ち」ました。しかし、戦いに参加したすべての英国軍将兵たちにとって、その戦いは、ひとつも気持ちの良いものではなかった。

要するに、どうみても「大勝利」したはずの戦いで、彼らは自分たちの「敗北感」をひしひしと感じていたのではないでしょうか。すくなくとも、騎士道精神を誇りとする英国の将兵には、それが痛いほど感じられたのではないかと、ボクは思う。なぜなら、彼らも「人」だからです。

牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていた。補給さえないのです。そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。自分たちの戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
ならば、かならず伝わる、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。だから「負ける」とわかっている戦いに、敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃した。当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いています。

たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいません。中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。

インパール作戦は、そもそも「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていた。にもかかわらず、インドという大陸に、第十五軍は進軍した。インドの独立のために。自らを捨て石とするために。


もうひとつ大事なことがあります。餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。お腹も空いていた。病気にもかかっていた。怪我もしていた。退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。そこでは、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

屋根だってある。場所は熱帯です。猛烈な暑さ、湿度、スコール等々。自然環境は厳しい。怪我をした体に、屋根は本当にありがたいものです。けれど、誰一人、民家を襲ったり、食い物を奪ったり、家畜を殺して食べちゃったりとかをしていない。退路を引き上げる日本兵は、銃を持っているのです。銃で脅せば、飯も食える。
屋根の下に寝ることだってできる。怪我の薬を奪うことだってできる。腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

世界では、銃を持った敗残兵が、そのようなことをするのは、いわば「常識」です。自分が生き残るためなのです。しないほうが、おかしいといっていい。けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本兵に襲われた民家というものが、ただの1件も、ない、というのは、どういうことでしょうか。インパール作戦について、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。

それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。しかし、ひとつだけいえることは、インパール作戦を生き残った人たちは、インパール作戦を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めなかったということです。他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。

しかし、インパールはいまだに「インパール作戦」です。「戦い」は、目的の如何に関わらず、敵が攻めてきたら防戦しなければならない。だから「戦い」と呼びます。しかし、インパールは「作戦」です。「作戦」というのは、目的があるから「作戦」なのです。

その目的は、「インドの独立に火をつけること」です。

インパール作戦には、当初大本営はガンとして反対していた。それにたいし、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。
そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。
牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」。その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするか。

彼らは戦いのプロです。瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。そして、すべてをわかった上で、作戦命令を実行した。だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのではないでしょうか。自分たちは、ここで死ぬ。あとは君達で頑張れ。そこに、おおきなメッセージが込めれられているように思えてならないのです。

普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。なにせ、インドの独立のための戦いなのです。インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。自分たちが戦いの先頭に立った。

軍だけではありません。個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。それが史実です。「この戦いで、日本は負けるかもしれない。しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、かならずやインドの人々の決起を促すであろう」インパール作戦は、まさに「肉を切らして骨を断つ」という武道の奥義です。だから、インパールは「作戦」なのです。

そして「作戦」は成功し、間もなくインドは独立を果たしています。

このお話は、さらに続きます。英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。

作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いた。実際、インパール作戦のあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいのです。まるでやる気が感じられない。

ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいる。そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。パル判事です。

そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。なぜでしょうか? どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。
そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。その英国は、米国と同盟関係にあります。ですから、東京裁判では、英国判事を出しています。

けれども英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせているのです。およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まる、といいます。

インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。加えて、英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。

けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。

そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。インパール作戦当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパール作戦の英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。それこそ卑怯者のすることです。
インパール作戦は、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であった。

すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかった。わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかった。インパールの日本獅子たちは、私たち日本人の誇りだとボクは思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

最後にもうひとつ。インパール作戦の退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
それが日本人だ、ということです。そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。

それが、日本人なのです。なお、インパール作戦について、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。これが成功していれば、インパール作戦は、日本の勝利に終わっています。

そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。

□記事元

 

偕行に掲載された「インパールの戦い」です。
編集部のご了解をいただきましたので、拡散しやすいようテキストにしました。
日頃のねずブロの文章と、ひと味もふた味も違います。
ボクは、これが真実だと思っています。。

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【インパールの戦いについて】
小名木善行(HN:ねずきち)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1479.html